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平成10年12月定例会

 初めに、漆芸研究所の移転と漆芸会館の整備についてお伺いします。
 これにつきましては、この数年来、幾度となく御要望申し上げ、御提案もし、またお願いしているところであります。
 先人の金子知事に劣らず、さきの平井知事におかれましては、香川の漆芸の振興には大変力を入れていただいたと、漆芸にかかわる方からもお聞きいたしましたし、また平成八年六月の文教厚生委員会では、「移転を求める陳情書が採択され、その趣旨に沿って検討したい」との説明とともに、「抜本的な新しい漆芸研究所のあり方を検討したい」との御答弁をいただいております。
 本県の伝統工芸の伝承と振興、そして後継者の育成を目途に、明治三十一年に香川県工芸高校が創立され、漆工科、つまり現在の漆芸科が設けられています。ちょうど百年目に当たります。香川県の漆芸の中でも、特筆に値する蒟醤について言えば、遠く中国からミャンマー、タイなど、広く東南アジアに定着していた藍胎蒟醤が日本に伝えられたのは、室町時代中ごろと言われています。これを江戸末期の天保年間、讃岐の玉楮象谷が独自の技術を確立し、食篭、食器を世に出しました。以来、讃岐の蒟醤として高い評価を受けています。玉楮象谷は香川の漆芸界の基礎を築いたばかりでなく、日本の漆芸に不朽の名をとどめたとたたえられ、その座像が高松中央公園の菊池寛通りに面して建立されております。
 讃岐の蒟醤が世に出てわずか三十年後には、さきに述べた漆工科が設けられているのです。明治維新の激動と混乱の中での、この素早いとも言える対応は、いかに蒟醤の芸術的な評価が高かったか、またいかに香川県の漆芸、漆器が地場産業としての底辺の広さに支えられてきたかをうかがわせるものと思います。
 そして、昭和二十九年、これもまた戦後間もなく、全国に先駆けて香川県漆芸研究所が設置されていることを思えば、先人の讃岐の漆芸に対する熱い思いと誇り、また産業界の期待もまことに大なるものがあったと思います。
 恐らく知事におかれては、讃岐の蒟醤、漆芸には造詣のほども非常に深いものと御推察申し上げますが、長らく香川県を離れておられた折に触れ、讃岐の漆器をお土産や贈り物にされたことはおありでしょうか。
 また、讃岐・香川を語るとき、讃岐の漆器のお話をされたことがおありでしょうか。それとは逆に、語りかけられたときは、まずうどんと金毘羅さんで始まって、最近では瀬戸大橋の話題で終わってしまうほどのものではなかったでしょうか。
 それに比べて、漆器と言えば石川県の輪島塗り、これが現在の全国的な常識になっています。輪島にも、当然古くから漆工芸が名をなしていたと言われています。しかし、香川県におくれること十三年の、昭和四十二年に輪島市立漆芸技術研修所を開設し、昭和四十七年に石川県に移管して石川県立輪島漆芸技術研修所として現在に至っていますが、その間には一期から三期の拡充工事を経て、平成三年には石川県輪島漆芸美術館が完成しました。また、漆芸を含めて伝統工芸の後継者を育成するため、金沢には美術工芸大学も創設されています。うらやましくも、石川県の並々でない行政的な熱の入れようが伝わってまいります。
 初めの輪島市立漆芸技術研修所の開設に当たっては、技術的にもすぐれていた香川県が手本とされ、石川県は香川県に要員を派遣するほか、全国から名のある漆芸家を招聘して指導を仰ぎ、後継者の指導、育成に努めました。そのとき、香川県からも藍胎蒟醤の代表的作家である太田 儔先生も招かれ、指導に当たられたのでありますが、思えば何とも皮肉なめぐり合わせの感がしないでもありません。
 もちろん、漆芸のみにかかわらず、私たちは先人が残してくれた大切な文化遺産を正しく後世に伝承し、後継者を育成し、その振興とさらなる発展に努めなければなりません。私はこれまで、漆芸研究所の移転と蒟醤会館の建設、そして究極的には美術工芸短期大学なるもの、もしくは美術工芸大学等を創設して、総合的な美術・工芸の教育施設の充実を図り、香川県の誇る蒟醤・存清・彫漆を貴重な文化遺産として正しく伝え、讃岐の蒟醤を全国に知らしめ、讃岐・香川の漆芸そのものの全国的な復権の願いを訴えてまいりました。
 県立図書館・文書館、県立歴史博物館、県立美術館など、多くの文化文教施設が建設あるいは計画される中、本来ならば石川県の輪島塗りに取ってかわって、いわば香川県の讃岐塗りとして、全国的な常識にもなれたかもしれない核であったはずの、現在の漆芸研究所のありようはまことに残念でなりません。人間国宝を初め、多くの名だたる漆芸作家のやるせない思い、地場産業界の歯がゆいほどの思いは、察するに余りある感がいたします。
 高松工芸高校の片隅に老朽化も激しく、忘れられたように建っている漆芸研究所の移転は、その内容の充実を図ることとあわせて、以上のような観点からも急務と思われますが、いかがでしょうか。
 そして、漆芸研究所と漆芸会館を併設し、芸術性の高い作品から身近に使える漆器の数々を展示し、あるいは即売することができれば、県内はもちろん、県外の観光客の目を通して、広く讃岐の漆器の輝きをPRできるのではないでしょうか。ひいては、県民の理解に支えられ、地場産業の振興の一助の一端に、また漆芸の魅力に接して興味と関心を持つ、若い有能な人材の発掘と育成に寄与する場になる可能性も期待できると思います。
 県におかれましては、さきに申し上げた「抜本的な漆芸研究所のあり方を検討する」とされて以降、移転先の立地については種々御検討され、幾つかの候補地も視野に入れながら御努力されていることは、うかがい知るたびにありがたく存じておりますが、一つの御提案として、栗林公園内にある県の商工奨励館を漆芸研究所として利用、移転してはいかがでしょうか。
 例えば、近代的な鉄筋コンクリート・総ガラス張りといった器もしかることながら、今の商工奨励館の外観は、漆芸研究所・漆芸会館の名称にふさわしくもあり、好ましいものではないでしょうか。
 蒟醤・存清・彫漆に代表される香川県の漆芸は、日本の漆芸とも言える高い技術水準と評価されていることは、人間国宝を四人も輩出し、日展・日本伝統工芸展の受賞、入賞者は、他県をしのぐほどの多くの作家を数えることでもおわかりのとおりです。
 重ねて、伝統ある文化遺産の伝承、後継者の育成、地場産業振興の一助のためにも、漆芸研究所の移転とあり方、そして漆芸会館の設置について知事の御所見をお伺いいたします。
 次に、都市計画道路・公園東門線の整備についてお伺いします。
 ちなみに、この事業計画の推移をひもとくと、昭和二十一年六月五日に決定されていて、戦災復興院第三十号という何とも時代がかった文字が目に入ります。その後、幾度かの名称、距離の若干の変更とがあって現在に至っています。それにしても、当初の計画決定から既に五十二年の、気の遠くなるような年月が経過しております。
 もちろん、住宅密集地でもありますし、財政の事情、ほかの道路事業に比べての緩急、優先度の考慮など種々状況の変遷があったとしても、余りにも長い年月が過ぎ去ったと言えるでしょう。これと同様に、戦後間もなく計画決定されていながら、いまだ取り残されている事業がほかにあることも想像されますが、あえて公園東門線の整備についてお伺いいたします。
 御承知のように、この道路は琴電栗林公園駅から、栗林公園の正門に通じる道路であり、香川県の観光案内地図やパンフレットを頼りに、琴電を利用して栗林公園を訪れる観光客は数多くいることでしょう。観光香川を標榜し、栗林公園を天下の名園と胸を張るにしては、このいわゆる表参道とも言える道路の現状には、正直言っていささか首のすくむ思いを否めません。
 加えて、地域住民にとっては最も大切な生活道路でありますが、近年、特に朝夕の交通の混雑は目に余るものがあり、自動車、自転車、歩行者がふくそうして、歩道のない狭隘な部分は大変危険なものとなっています。
 街路、まち並みづくりという観点からも過去に御指摘いたしましたが、周辺の地域住民は、この事業整備の進展を一日千秋の思いで待ち望んでおり、熱い期待を寄せています。沿線の近くには、この道路を取り巻くように二つの幼稚園、栗林小学校、桜町中学校、高松第一高校があり、また栗林公民館、栗林病院、済生会病院、そして高松保健センターが点在しています。したがって、この事業の整備は、交通安全の点からも言うを待たず、栗林地域全体の顔として利便性はもとより景観、まちづくりの点からも、非常に重要なものとなっております。
 そして、徐々に進捗を見せている高松第一高校の西側を通る都市計画道路・東浜港花の宮線の整備と相まって、近接の栗林商店街、花の宮商店街の活性化にも、少なからず寄与するものと期待されています。知事は、さきの所信表明の公共事業の中で、道路等単独事業についても、身近な社会資本の整備促進を図るためには、積極的に対応すると申されました。この言葉に大いに意を強くして、大きな希望を持ちながら、この事業の進捗の状況と今後の見通しについて知事の御所見をお伺いします。
 次に、イベントの活用による地域経済の活性化についてお伺いします。
 昨今の景気情勢は目を覆わんばかりの厳しい状況にあります。一昔前であれば、経済が自然と好循環をして、一つの人気商品によって次から次へと波及して経済効果が生まれていました。
 それが、景気の悪化により、財布のひもがかたくなっている状況から、何にしても難しく、何かに手を出そうという雰囲気までもがなくなりつつある状況です。今のような時期にこそ、集客力の向上を図り、経済効果が出るような取り組みを行うべきと考えます。
 この手法として、イベントは、その集客力と経済波及効果など大きいものがあると思います。
 明石海峡大橋が開通して半年、経済効果の面で、少なくとも現時点での利用は順調であり、その影響もあってのことでしょう、瀬戸大橋も普通車の通行台数を見る限り、前年に比べて若干でありますが伸びているところです。また、香川の観光入り込み客数も前年に比べて伸びているとの報道があります。
 しかしながら、忘れてならないのは瀬戸大橋開通時の経験であります。昭和六十二年に四百九十万四千人であった観光入り込み客数が、昭和六十三年には千三十五万一千人と倍増いたしましたが、翌年には八百二十六万五千人に減少し、以降若干の持ち直しはありましたが、長期的には減少の傾向を示しております。この経験からすると来年以降もことしのような伸びが期待されるとは言えないものと思います。
 もちろん、三橋時代が実現すると、香川は素通りされてしまうのではないかという懸念もありますが、三橋の中心に位置することから、二十一世紀においては瀬戸大橋を軸とする循環ルートができると予想されます。
 三橋時代、いよいよ実現というこの時期、観光キャンペーンももちろん大事でありますが、経済の活性化も考え合わせれば、来年五月の尾道・今治ルート開通後も、話題性のあるイベントの提供を毎年行うなど、積極的に考えていくことが必要と思います。
 ついては、本県への集客力の向上、それによる地域経済の活性化のため、イベントの活用を考えていくべきだと考えますが、知事の御所見をお伺いいたします。
 また、サンポートの開発は着々と事業が進捗していますが、二期的位置づけのされた、北側街区の暫定的利用方策についてはまだまだ研究中であります。サンポート高松は目の前に美しい島々が広がる瀬戸内海、背後には日本三水城である玉藻城を持ち、観光地として訴えるには絶好の場所と考えます。また、交通の結節点であることから、イベントを行うにも最適な条件を備えていると思います。
 そこで、私は北側街区でサンポートをテーマとするイベントを行うなど、サンポートのPRはもとより、本県全体の集客力向上に役立てていくことを考えてはどうかと思いますが、知事の御所見をお伺いいたします。
 最後に、五色台の整備についてお伺いします。
 これについても、今までに幾度か御提言申し上げてまいりました。五色台整備の歴史、経緯については既に御承知のこととは存じますが、既存の道路を初め、各種の貴重な教育施設、文化施設、また公園施設などを宝の持ちぐされ、あるいは閑古鳥が鳴く等のそしりを受けることなく、県民の大切な財産として有効な利用が促進されるように、そして五色台全体を一つの観光公園として、いかに県内外の人々に愛される憩いのスポットとして、確固たる位置づけができるか、その活性化の方策を一つ一つ講じていくことが肝要と思います。一朝一夕にして名案、妙案があるとは必ずしも思いませんが、思いつくままに御提案をし、考え、検討を重ねていくことは、事この五色台の案件にかかわらず非常に大切なことと存じますが、あえて一つの御提案をさせていただきたいと存じます。
 つい最近のことですが、伊予三島市の翠波峰高原公園に立ち寄る機会がありました。この公園は愛媛の金砂湖県立自然公園に含まれていて、眼下には伊予三島、川之江の両市街、北西にかけては東予の市街が見渡せ、間近な瀬戸内海には小さな島々が点々と浮かび、カラフルなフェリーや貨物船が航跡を波立て、小さな漁船が行き交う景色は、ほどよく五色台と相似通った印象を受けました。標高約九百メートルの翠波峰を中心にして、約二百ヘクタールの高原公園は芝やクローバーの緑も映え、アカマツ、ツツジ、アセビなども植栽されており、桜の公園としても知られていると聞きました。
 よく整備されたスカイラインを行くと、標高約七百五十メートルほどの開けた場所に、約二ヘクタールの第一園、ほど近くに約一ヘクタールの第二園、そして第三園の〇・五ヘクタールの広大な緩やかな斜面全体が、色鮮やかなコスモスのじゅうたんで埋め尽くされておりました。コスモス祭りの案内板を目にして、ふと立ち寄ったものの、圧倒されるような壮観さは想像もしませんでした。広い駐車場が幾つかあり、その他の施設といえば三カ所の展望台、おおよそ立派とも言えない小さな食堂、立ち売りのタコ焼き、フランクフルトの売店、もちとまんじゅうをそこでつくって売っている小さな売店ぐらいなもので、ましてや食堂のメニューはうどんとおでんだけというそっけないもので、失礼な言い方をすれば、お世辞にも立派な施設、設備の整った公園と呼べるものではありませんでした。
 それでも、日曜日の午後五時ごろでしたが、後から後から若いカップル、家族連れ、年配のグループなどがコスモス畑を見物し散策を楽しむためにやってきています。駐車場には県外ナンバーも目につきます。聞けば、古くから市民に親しまれていたというのも、比較的なだらかな山で、ハイキング気分で頂上にも登れて、非常に展望の開けた景色のよい所であった翠波峰を、花いっぱいの高原公園として整備についたのが昭和五十二、三年のことで、今後の展開については、もっと花畑の種類をふやすことと、大型バスが容易に乗り入れできるように道路を改良すること、シーズン、曜日によってはさばき切れない車の迂回路の必要性を検討しているとのことでした。今では市民の憩いと散策の公園として定着しており、年間の入り込み数は平成五年以降、平均して十六、七万人を数えていると聞きました。
 もちろん、この公園に限らず全国のあちらこちらに、規模の大小の差こそあれ、いわゆるコスモス園なるものは数多くあると思います。また、テレビや新聞でも、ハナショウブ園やヒマワリ園、ハーブの公園やハギの咲き乱れる寺の庭が人気を呼んでいる等々の、似たような事例をたびたび紹介しております。
 ただ単にほかをまねればよいとは決して申しませんが、例えば大きな箱物を一つ建設するのに比べ、どう見ても膨大な支出をしないで、県民に歓迎される物づくりができる一つの例として強い感銘を受けました。
 花は、四季折々に咲き乱れます。そして、その一つ一つがそれぞれの美しさと表情を見せてくれます。そしてまた、人は花を愛し、小さくともまた大きな感動を与えてくれます。
 さきに述べましたように、思いつくままの小さな御提言かもしれませんが、知事の御所見をお伺いして質問を終わります。


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